バレンタインの憂鬱

気がつくと、僕は車椅子に座りながら多摩川の縁際にいた。それもどうやら土手下の公園の真ん中あたりのようだ。日は暮れがかり夕方時のよう。何故か後頭部が痛い。

何でここにいるのか、ひょっとしたら誘拐されていたのではないか、そんな恐怖心にかられる。
しかしおぼろげながら悪い夢を見ていたことは覚えている。記憶を辿れば…

そう、僕は昨日ALFA CROSSというダイニンバーで一人グラスビールを飲んでいた。
多分19時頃だったろう。ここは人の入りも少なく、なにより外はカップルで溢れていたので、いたたまれなくなり、たまたまここへ逃げてきたのだ。
せっかくの休みの日に家でずっと居るのも退屈だったので、ちょっと街へ散歩しようと思えばこれだ。

そうか、今日はバレンタインデーだったんだ。と散歩してから気が付いた。
そんな寂しい思いを抱きながら、みすみす独り身のアパートに帰るのは余計に寂しい。だから一人隠れてビールを飲んでいたのを思い出す。
結局2、3杯飲んだのだろうか。既にアルコールが理性を凌駕していて、何が起きても恐くない「最強」のメンタリティへと変貌を遂げていた。
そう、僕はお酒が弱いのだ。
だがそれ以上に、このバレンタインデーに独り身であることを自覚し、寂しさに耐えかねるメンタリティのほうがもっと弱い。そんな寂しい気持ちは放っておけないので、「最強」になるしかなかった。

そして店を出てからは、社会に不平不満を吐く代わりに、唾を吐き続けるダエキングとなりながら、川で愛を叫ぼうと思い立っていた。
そう、僕は酔っ払っていたのだ。

そして愛を語るより口づけを交わしたいが、あいにく口づけを交わせない。
僕に出来ることといえば、飛んでくる奈良漬けを上手くかわすことくらいだ。

そんなことはどうでもよくて、川に近づき土手を千鳥足で降りようとするが、案の定足が絡まって転げ落ちたのだろう。千鳥ヶ淵ではないのに。

転げ落ちた先が、この公園だったのか。
そして暗がりながら、車椅子に座った男性が独りそこにいた。
何故この夜の公園に独りでいたのかはあまりこの時に考えられなかったが、その男性はボソッと「ボールは友だち」と口走ったのを僕は聞き逃さなかった。
そうか、こいつも寂しい奴なんだなと涙が出そうになった。
そして言葉を超えたシンクロニティを感じたのか、彼は転げ落ちた痛みと酔いの影響で立てなくなった僕の体を車椅子に乗せてくれたような。
「ボールは友だち」と口走りながら。
ここで彼の言うボールとは何を暗喩していたのかは知る由もない。彼はどこかへ行ってしまったようだ。
最近の車椅子はとても乗り心地が良い。手で漕ぎ少し動いたところまでは覚えているが、そこから先の記憶が飛んでしまっている…

そして今、周りを見渡せば子どもたちがサッカーボールを蹴りながら戯れている。そうか、後頭部の痛みは多分これだ。

子どもたちが謝りにこないのは、子どもたちの教育のせいではない。
公園の中心で愛を叫ぼうとし、誤って土手から転げ落ち、車椅子に乗りながら気絶していたオッサンの、ただならぬ異様な雰囲気に恐怖を感じて謝れなかったのだろう。多分。

もしくは、僕の頭を誰かが友だちと勘違いしたのかもしれない。

謎はすべて解けた。真実はいつも一つ。

実は目覚めた日が16日であることに気付かなかったことを除いて。
着信履歴を見ればまたALFA CROSSへ向かうのでしょう。

これはヘックションです。実在の人物や組織とは一切関係ありません。
ニュアンスを除いて。